オトコラム

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第3号 目が見えないことと、耳が聞こえないこと

オトデザイナーズのホームページのトップページには、“ただ一つだけ感覚を返してもらえるなら、聴覚を返して欲しい・・・Helen Keller”と書かれています。しかし、実は、ヘレンケラーが、明確にはっきりと、このように発言したという記録はありません。彼女が残した数々の言葉から、後の世の人々が「彼女は、こう思っていたに違いない」と考え、それが、ヘレンケラーの言葉(考え)として知られていったというのが、どうやら真実のようです。
彼女は、自分の持つ障害を決して悲観的には捉えておらず、とても前向きに生きた女性です。類まれな才能と努力で、大人になるまでに、かなりのレベルのコミュニケーション能力も獲得しています。ですから、そんな彼女が「返して欲しい」という、一見、ネガティブにも思えるような考えを持っていたかどうかは、実に疑問が残るところなのです。
オトデザイナーズのトップページも、そういう意味では、表現を変えた方が良いのかもしれませんが・・・やはり、「耳が聞こえるということ」の喜びを、皆さんに直感的に感じてもらうのに、これ以上の言葉はありませんので・・・しばらくは、このままにさせて頂こうかなと思っています。

ヘレンケラーが、自分の盲と聾について、聾の方がより大きな損失であると考えていたことは、間違いのない事実です。例えば、彼女は1910年に手紙で次のように書いています。

「耳が聞こえないことは、目が見えないことよりも、より痛切で、より複雑なことです。聾は盲目より不運なことです。なぜなら、それは、最も重要な致命的刺激を失うことを意味しているからです。つまり、言語をもたらし、思考を活性化し、人間同士の知的交際を可能にするのに欠かせない、声という最も重要な音刺激を失うことになるからです。」

目が見えないことと、耳が聞こえないこと。
これらの“つらさ”を比較することは、とても不毛な行為で、ひょっとしたら、そういった障害をお持ちの方々に対しては、こういう比較をすること自体が失礼なのかもしれません。では、なぜ、このコラムで、あえてこういう話をするのかと言うと、それは現代社会に生きる我々が、人生においての“聞くこと、聴くこと“の意味を忘れかけているように思えるからです。

前号では、「現代社会は、たいした情報を得ることが出来ない視覚という感覚に、無理やり過多な情報を押し込んでいる」と書きました。

そうなんです。
今は、様々なメディアを通して、視覚経由でとても多くの情報が流れ込んで来るのです。
だとすると、ヘレンケラーが生きた時代に比べ、現代に生きる我々にとっては、聴覚の必要性というのは、格段に落ちている(ヘレンケラーの時代に比べて、耳が聞こえないということが、そんなに大きな問題では無くなっているのではないか?)という考え方も出来るのかもしれません。

だが、待てよ。
それで話を終わりにしていいの?
人間が本当に必要としている感覚(五感刺激)とは?
現代社会は、それに逆らって形成されているのでは?

あとは、このコラムを読んだ皆さんに考えて頂きましょう。
趣味に、ビジネスに、何か新たなヒントを見つけられるかもしれませんよ。

(2006.07.03)


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